アルバイトで働いて貯金ができても、淡々と時が過ぎることに焦っていた件について

アルバイトって自分の好きな時間に働けるし、これなら正社員ならないほうがいいと思っていた時期がありました。

収入は少なくてもいいから自由な時間が欲しいと思っていたんですね。

今でもあまり気持ちは変わっていません。

事実、正社員としてフルタイムで拘束されてそれなりの給料をもらうよりも、多少の収入をアルバイトで稼いで副業に時間を割くというやり方もありますから。

しかし正社員には正社員の良さもあると思っていて、案外悪くないです。

 

今回お話しするのは、正社員でなくアルバイトで、面倒なしがらみもほとんど感じない職場だったのですが、それでもアルバイトであることで感じた辛かったことを話してみようと思います。

僕にとっては約6年前の今は昔の話になるので懐かしいと思いながら書きます。

 

そのために、なぜ正社員としての就職でなく、一度アルバイトに落ち着いたのか、経緯も話させてください。



アルバイトになったのは、正社員に希望を持てなかったから

就職浪人して就活をしたのですが

トライした会社はエントリーが50社、面接が30社程度で結局内定を得られたのは1社でした。

 

そう、当時知識が浅くがむしゃらにやってた自分でも1社採用してくれた会社がありました。

新鮮な野菜パックを製造する工場でした。

多少圧迫面接だった気もしますが、就職浪人で何とか内定を掴みたいと思っていたし、卒業して1年だけで就職できない社会なんて間違ってると思うようになり、よほど社会に対する鬱憤を感じていましたから。

こんなやつらに言い負けるはずがないという強気の世間知らずになっていて、思わず強気で返してしまったんですね。

跳ねのける強さを買われたのかもしれません。

 

おかげで1社だけ内定をもらえました。努力は無駄じゃなかったんだとも思いました。

しかし、面接後に直感で感じたことなのですが、市場は朝が早くキャリアもライン工、おそらく研究開発なんて勉強してきたことは役に立たない。

そして最終面接には上の職位の人が来ると思うと、あの面接が採用試験として有効だと思う人間たちの下で働きたくないと思いました。

この思いについては、親にも相談しました。

僕『例えここで就職できたとしても長くは続かないと思う。僕は就活で失敗したんだ。』

父『内定を一度取れたのはすごいことだ。けどせっかく就職するなら長く務めるのは必須だろうね。厳しいか。』

僕『厳しいと思う。そこで、僕は夢だった都会での就職をあきらめようと思う。あなたの元で働いてもいいだろうか?』

父『わかったよ。気を付けて帰って来なさい。』

 

こんなやり取りをしました。

もともと父の元で働くことはできたのですが、身内で働くのは将来的にすればいい話で、世間を学んできてほしいということでせっかく上京したのだからそっちで就職先を探してみてほしい。ということになっていました。

僕自身もそうしたいという願いのもと、がんばってきたのですが、卒業後1年目で結局諦めてしまいました。

当時、親からの仕送りももらっていたし、僕が自分勝手に生きているような感覚になっていて、もうこれ以上親に無駄に迷惑かけたくないと思っていた気持ちがここで限界になりました。

 

結局、実家へ帰省して働くことに。親の反応に救われてがんばる気になった。

大学行って好きに勉強してきて、友達もできて遊んだりすることもあり

卒業はできたけど就活浪人したあげく成果を出さず帰ってきたときの気分で

とてもじゃないが、親に顔向けできませんでした。

実家に帰るのも緊張しました。

例え帰れば仕事が用意されているとはいえ、僕は結局進学も、就職も自分の力でうまくいかせることができなかったんだという敗北感は募っていきましたから。

自己肯定感は今の10%ほどだと思います。

 

玄関を通るのも久々だし、足が重く感じる。

 

 

帰ったときの親の顔はなぜか笑顔でした。

僕は敗北して帰ってきて、願いを果たせなくて親にもまで迷惑をかけることになるのに、帰ってきたとき笑顔で迎えられることに疑問を感じていました。

しかしそのおかげで、帰ってくることができたし、これから働かせてもらえるんだと嬉しくなりました。

 

実家がお寺と保育園と学童をやっていましたので、

お寺と学童の仕事をさせてもらってお金を得たんですね。

日中学童で勤務して、住職としての仕事、葬儀を優先しました。

手取りで月々7万+10万ほど収入がありまして、実家ぐらしだったので貯金はたまっていき、1年間で人生初の100万円こえの貯金ができたときは嬉しかったです。

(大学時代は研究で忙しかったのと、コミュ力や勇気もろもろがなくてアルバイトもできない人間でしたから、買い物も節約していてほしいものもなかったのです。)

 

お寺の仕事は葬儀の随喜で、主軸として父が葬儀を上げ、その付き人という形で葬儀に出るのですね。

もっぱら木魚と鏧子(鐘みたいな音のする器のような形の物)を叩いてリズムをとる役でした。

もちろんしかるべき修行はやったうえで任される役目です。

 

学童での働き方は、15時ぐらいから子どもたちが帰ってくるので、手を洗って来て宿題をさせておやつを食べさせて、後は自由な時間として一緒に遊んであげるものでした。

なかなか宿題に身が入らないので対策を考えたこともあります。

正直宿題さえ終わっていれば後は遊ぶなり本読むなりやっても問題ないですからね。

本を枕にするやつとか真実が不明確な言い争いの仲裁なんかもしました。

 

ちょうど大学で化学実験を子どもたちに実演するサークルに所属していましたから、大きな泡にとじこめてやったり、スライム作ったりスーパーボールも作ったり、行事には事欠きませんでした。

 

しかし、結局自分の肯定感が薄れてしまった。理由は挑戦のなさ。

今から少し贅沢なことを言います。

お寺も学童の仕事も今に思えば自分にできることだからやれていたのです。

しかしそんな実感は当時の僕にはなく、

『僕は結局人に与えられた楽な部分の仕事を斡旋してもらってるだけだ。こんな不甲斐ないままでいいのか。正社員を未経験のまま人生終わっていいのか。』

そう感じていました。

ほんとに根がネガティブな人間なのです。事実がどうであれ、人生観が違えば例えお金持ちであろうと常に心が傷ついている感覚を感じ続けているものです。

 

『僕はおじいさんになって死ぬまでの道筋が見えてしまった。喜びもほとんどないから、このまま生き続けても人生の幸福感を得ることはないと思う。』

 

こんな恥ずかしい気持ちを父に打ち明けたことがあります。

父は

『そんなことを言うな。私は今も生きているだけで嬉しいと思う。うちで働いてくれているのも助かっているよ。』

こう返してきました。

 

この言葉で結局救われたのですが、それでも僕は正社員の経験を積みたいと思ったんですね。

 

その結果が次の話、公務員専門学校に入るに続くのです。

しかしその話についてはまた別で話そうと思います。



余談:ネガティブ思考な人へ、君は人生を楽しもうとしていいんだ

書いてて我慢ならなくなったのでもし自分のような方がいたらお伝えしたいと思っていたのですが

 

『謙遜は行き過ぎるとただのネガティブな人。謙遜やネガティブは誰の役にも立たない。だから謙遜する前に親にも胸を張って伝えられる自分のスキルや能力を身につけろ。その力で未来に期待して、こつこつ努力をしよう。そうして元気で楽しそうに人生を生きている子どもを見ることこそが親にとっての生きがいだ。』

 

君が楽しそうに生きていないと親は不安で生き続けることになる。

それは結果ではなく前に進み続けることこそに意味がある。

逆に言うと、君が人生をあきらめてつまらないと思うことは、親にとっての一番の悲しみなんだ。

 

就職しなければ親も自分も幸福ではない。は少しずれているなと思っていて。

人生を豊かにする要素の一つとして就職があるわけで、稼いだお金で楽しそうに買い物に費やしている姿や家庭を築いている喜んでいる姿も見せるということも重要になってくる。

 

結局子どもが楽しそうにしていないと親は満足できない。

生きてくれないと嫌なんですね。

子どもの死が親の生きがいの喪失となり、後追いすることもあります。

 

そう考えると、まず君が楽しそうにしている前提があって

そのうえで、仕事も見つかって、私生活も充実して、できれば結婚して孫を見せてもらいたい。

というのが親の願望なんですよ。

 

就職したとしても気を付けてほしいのは、誰も君が苦しむところなんか好きじゃないということだ。これは確実にわかっておいてほしい。

 

親に対してネガティブな思考だった自分よ。

自分がいかに社会に貢献しているか実感することを忘れるな。

その思考は、いずれ多くの人の役に立てる方法を考えることにつながり、それを実現させることを夢にすることだろう。

 

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